高山彦九郎とは・・
勤王思想布教の先駆けとなった思想家であり旅人である。
<略年表>
1747(1歳) 5月8日、上野国新田郡細谷村(現:群馬県太田市)で生まれる。
父、彦八正教 母、繁(しげ)
1749(3歳) この頃から祖父貞正が蓮沼家から隠居分家して高山姓を名乗るようになる。
1759(13歳) 祖母りんの指導の下『太平記』を読み、南朝の忠臣が建武の中興の志、遂げられざるを見て感銘を受け、勤王の志を持つ
1764(18歳) 3月15日、置手紙を残して家出し、上洛する。三条大橋から皇居を拝した。
1770(24歳) 江戸に出て細井平洲(*1)に入門する。
1774(28歳) 東海道を通り、京に戻る。
1775(29歳) 京を出発する。故郷の細谷村に帰る。
1776(30歳)~1782(36歳)上州(現:群馬県)や江戸を旅し、細井平洲など多くの儒学者と交流する。
1782(36歳) 11月18日、京都に滞在し、公家や志士と交流する。
1786(40歳) 祖母りんが没する。その墓の側に小屋を建て3年間服喪する。
1790(44歳) 水戸へ遊学し、水戸の学者と交友を深め、その後林子平(*2)を訪ねる。
12月1日から京都に滞在し、多くの公家や盟友と交流する。(*3)
1792(46歳) 熊本で元旦を迎え、その後鹿児島へ向かう。
5月25日、鹿児島を出て再び熊本へ行き、その後豊後・豊前(現:大分県)を訪ねる。
1793(47歳) 5月、久留米に滞在し、その後大宰府を経て筑前(現:福岡県北西部)を訪ねる。
6月27日久留米の森嘉膳宅にて自刃し、翌28日朝8時ごろ没する。
10月遍照院に葬られる

↑高山彦九郎記念館館内に立つ高山彦九郎像
(*1)細井平洲・・・1728‐1801。儒学者で藩校・明倫堂で学長を務めた人物。米沢藩の祖である上杉鷹山の師としても名高い。
(*2)林子平・・・1738-1793。経世学者で彦九郎・蒲生君平(尊王論者)とともに「寛政の三奇人」とよばれた人物。
(*3)今回取り上げている寛政京都日記はこの時期にあたる。